1) 無事、帰国

 

心配していただいたみなさん。ありがとう。・・・誰もいないか。

一番の懸念は、1人で帰るシカゴ空港の乗継だった。11:13着、12:00シカゴ発と、もともと乗継時間が少ないというのに、シンシナティからの国内便の出発が少し遅れた模様だった。機内アナウンスがなにか言ってるが、ちんぷんかんぷん。心配が募る。こっちは、あの大きな空港の、国内便がどこに着き、国際便がどこから出るのか、それも分からないのだ。

着いた空港で、フライト情報のスクリーンで探すが、「osaka」の文字がない!気は焦る。空港関係者らしい人に、「Where is international gate?」。「Terminal 5」らしい答えだ。そこまで走って、つかまえた職員に「Where is United airlines gate?」。答えはまたもや、「スクリーンを見よ」って感じ!

シンシナティ市内で

さあ、参った。時間は過ぎゆく。顛末はまた書くが、やっと目的ゲートがC29と分かり、走ったこと、走ったこと。空港の端から端だった。並ぶ人と「Osaka」「877」という文字のうれしかったこと。のどはカラカラ。カウンターの女性にチケットを示し「This gate ok?」。答えは「ok」!

やったんだ、私は! この異国の地、アメリカのど真ん中で、たった一人でやったんだ!気分は最高。

気持ちに余裕ができて、周りを見ると日本人だらけだった。ディズニーランドのバックをもった高校生の一団が、とぐろを巻いていた! 出発ゲートの表示をみたら、departs2:05 とあった。出発が遅れる、2時間待て、だと!

この行き帰り、大きなリュックを背負いウエストポーチを腰に、出発前の「用心しなさいよ」との一言と珍しさに目はキョロキョロ、必死に走るこの初老の男は、周りにどう映っていたことだろう。

私の若いころ、上京してきた父を想いだしていた。

 

2) 旅は度胸だ

 

こちらが言いたいことは、それでも、前もって頭で単語を整理(?)してからしゃべることができる。問題は答えだった。何時何分という単純な答えさえわからない。発音が違う。喋りが早い。

時間の遅れが気になったシンシナティからの機中では、最初からメモを使った。なんと書いたか忘れたが、単語並べてメモしシュチュアートに手渡し、メモで返してもらった。

子どもの笑顔のかわいさは万国共通

シカゴ空港での右往左往は書いたが、Terminal 5でまたもや「スクリーンを見よ」といわれ別なフライト情報を見に走っても、やはり「osaka」の文字はない。United airlinesの国内ゲートにいた女性を見つけ、チケットを示した。こうなりゃ、もう、これしかない。「Help me!」。

彼女は、キイボードをたたきコンソールで確認し、C29と書いてくれた。後は走るだけだった。このベテランに助けられたのだった。

出発ゲートについて一安心したら、のどはカラカラ、腹は減る。スタンドを覗いたらカットしたフルーツが美味しそう。「fruits package」と頼むが、店員がわかってくれた様子がない。もうボディランゲージしかないではないか。パッケージを手にとって、ニコ! これでOKだった。

「目と口と耳さえあれば、どこでもいける」・・・これは母のせりふだが、国はちがっても人は様子や表情で、相手が何をいいたいか、わかるものだ。

旅は度胸だった。

 

3) ビバ!アメリカ

 

7月11日、シンシナティ空港に降り立った。出迎えてくれたデローのピックアップに乗り、彼の家に向かってハイウエイを走った。ハイウエイはゆったりとした片側4車線で、各都市にむかうハイウエイが縦横にクロスしていた。

アップ気味だったハイウエイの高みにさしかかると突然、ビル群が現れた。シンシナティだった。街中は実に綺麗だった。落ち着いた雰囲気がただよい、道ゆく人々をスクリーンのなかに見るようだった。

今回の宿となったデローの家

デローの家は、町を抜けた郊外にあり、巨木立ち並ぶ緑豊かな街区だった。裏庭は公園に面し、わが子に将来のNBA選手を夢見るのだろうか、朝早くからバスケットの練習にいそしむ黒人親子や散歩する老夫婦の姿があったりした。

この家で7日、ケンタッキーの別荘で3日過ごしたが、初めてのアメリカ社会にふれた私には、新鮮な驚きの日々だった。

シカゴからフロリダまで結ぶハイウエイを走って別荘にむかったが、両サイドには森や農場がどこまでも続いていた。ハイウエイは、映画でみた巨大なコンボイが走り、ピックアップに牽引されたボート、それも半端じゃない、5人、6人が乗れる大きなボートやキャンピングカーが当たり前のように次々と、南に向って爆走する。

擦り切れ剥げ落ちたタイヤ片が乱れ散るハイウエイを、サイドドアをぼこぼこにした角々のリンカーンが、大儀そうにエンジンをけたたまし、『老人と海』から抜け出してきたヘミングウエイが、白髪とひげを自慢そうに、ちいちゃく真っ赤なオープンカーを転がしてゆくさまは、ビバ!アメリカ!だった。

 

4) カントリーミュージック

 

一緒にいっていた甥の祐介と私が7月生まれだった。別荘から帰ってきた翌日、姪のスージーの家に20人を超す親族が集まってくれて、にぎやかなパーティーがはじまった。

遠来の客人あってのことで、これが日常とは思わないが、男も女もよく食い、よく飲み、ゲームに興じては、よくしゃべり、よく笑う。ひっきりなしだ。手からタバコやボトルの離れる間がない。

いつまでも続く談笑

この家は、まだ新しいニュータウンにあるが、小高い丘の上に広い敷地と後ろに深い森を控え、素敵なロケーションだった。44歳、ビル空調などの工事やメンテナンスに従事する労働者だが、私を地下室に案内しては、家全体をコントロールする冷暖房システムを見せ、裏庭にはプールを造るのだとパンフレットを見せてくれた。そして手取り足取りビリヤードを教えながら、楽しそうな笑みにあふれていた。妻は家中を案内して嬉しそうで屈託がない。

そりゃ、そうだろう。仕事は順調、家族は健康、陽は輝き湿気はない、風は心地よく素敵なマイホームだ!これが人生ってもんだ、今年のシンシナティレッズは負け続けだが、くよくよしてなんになる。そう、ここは、陽気なカントリーミュージックが良く似合う、いや、そのものの国だ。

クレジット社会はどこにあるのだろう。この国に哲学するってことがあるのだろうか。そこまではよく分からなかった。

 

5) ミドルクラス

 

カンバーランド湖畔には、別荘が立ち並んでいた。きつつきが遠くでコーンコーンと木霊し、リスが木を這い登っていた。深い木立のなかのレンガづくりの家、陽射し豊かな芝生の白い壁の家、どちらも味わい深かった。

湖は130kmもの長さを誇るが、湖にはジェットスキーの軌跡が弧を描き、子どもたちの歓声がはるかに聞こえていた。私たちもボートに興じ操縦までした。Oh! Good(うまい!)といわれていい気になったが、ボートに、ジェットスキーを持ち、別荘を保有し、こうした週末を楽しむデローに、"あなたはアメリカ社会で裕福な階層か"と聞いたら、"no ! Middle Class"との答えだった。

小雨にけむるカンバーランド湖

デローは、ジェネラルエレクトロニクス社という世界的大企業ではあるが、一介の社員だし、両隣の別荘とも退職教師などの持ち物だった。

もう一人の姪は、日本でいえばペンキ職人を夫としていたが、郊外に広がる丘にうっそうとした森をバックに、最近、3回目になる家を新築していた。この敷地を聞いたら、2.5エーカーで日本円に換算して740万円で購入したとのことだった。紙とペンを借りて必死になって計算してみた。ざっと3,000坪、坪単価2,500円ではないか。大きな道路に面し、ちゃんと電気、水道が整備済みなのだ。夕日ケ丘(境港市が開発販売中)が頭をよぎり、日本の狭さをのろった。

一介の労働者や中小業者にして、これだけの暮らしを可能とさせるアメリカは、やはり大きい。

日本の「中流階級」は、あまりに貧しくはないか。

 

6) ダウンタウン

 

瀟洒なシンシナティの街の一角にさしかかると、突然に街並みが変わった。そこがダウンタウンだった。車の中から見るしかなかったが、壊れかけた建物、すき勝手なペインティング、だぼだぼのズボンをはいたBボーイや年老いた黒人夫婦がビルの入り口に座り込んでいた。

ダウンタウン

郊外のモンゴメリーという街にも行った。そこは街路灯まで花で飾られ、しゃれた高級そうな店舗がならんでいた。住宅地に入ると広い芝生と深い木々の奥に屋敷が見え隠れする。「道路から家につくまで大変だね」と思うほどで、「管理にお金がかかることだ」といらぬ心配までした。

ここは「富裕層の住む町」なのだそうだ。モンゴメリーというだけで土地も高く、案内してくれた姉は「黒人などは住めない」といった。モンゴメリーのステイタスが下がるからだ。徹底過ぎるまでの差別化で、金持ちには快適と安心が提供されるのだ。

上には上があるもので、波に濡れてはと、カメラを置いてきたので写真がないが、カンバーランド湖を深く入り込んだ静かなところに、別荘ほどもあろうかと思う(実際、そうなのだ。木まで植えてある)ハウスボートが数十艘も繋留されていた。バービーの説明によると、企業経営者や弁護士、医者などリッチな階層のもので、バカンスともなれば夜毎のパーティーで遊覧する船の灯りが湖上を染めるのだという。 でもそこには、「醜悪」も漂ってはいないだろうか、などと思ったりしてしまった。

 

7) この銃社会

 

昼はきれいなシンシナティも、夜は危険だといわれた。帰る前の日の夜も発砲事件があった。介護の仕事でダウンタウンに通うバービーの話では、先日も13歳、14歳の子どもたちによるギャングまがいの撃ち合いがあったという。「シカゴ新報」という現地日本語新聞にもでていた。

フリーマーケット看板

土曜日、近所の日本でもはやりのフリマに連れて行ってもらった。フリマは「自由市場」のFree Market かと思っていたら、Flea Market なのだ。Flea(蚤)の、文字とおり"ノミの市"なのだった。

老夫婦や若者が、朝どれの野菜、屋根裏に眠っていたガラクタを並べ、業者らしき者が、CDや雑貨を大量に並べていた。驚いたのは、ライフル、ピストル、弾丸まであちこちに並んでいた。写真を撮りたかったが、リアクションが怖くて言いだせなかった。

「シカゴ新報」に、銃購入前に犯罪歴を照会する仕組みが検討されていると書いてあったが、それはそれで必要なことだろうが、先のダウンタウンの事件いついて、姉は「親に職がない、子どもに夢がない、貧困の問題」だといった。この過酷なまでの貧困に、打つ手がないアメリカは「豊か」か。

 

8) 肥満大国 アメリカ

 

一番問題に感じたのが「肥満」である。日本でも問題となってきているが、半端じゃない。近所の家で子ども二人がプール遊びに興じていたが、コーラのボトルを片手にあがってきた水着姿のその姿は、二人ながらにして見るに忍びなかった。その夕方いったレストランでは、もっとすごかった。そこここに、その身をどう扱うのかと思うほどの男や女が、グローブのようなフライドチキンやタコスを食み、縦と横が同じといったら言い過ぎかとは思うが、その肉をピンクの洋服につつんだ二重あごの少女が、あどけない瞳で私を見やりながら、どよん、どよんと横を通っていった。

デローの別荘

姉は、「最近の研究では、肥満がとくに体に悪いということはないらしい」と言ったが、私の目には異常としかいいようがない。この「異常」がいま、この国では例外的なことではなく、アメリカ社会は、数世代にわたる国家的プロジェクトをもって「食」と「生活習慣」に立ち向かわばければ、ここから崩壊してゆくのではないかと、私は思った。姉によれば、学校からコーラなどの自販機の撤去はされているようだが、アメリカナイズされてゆく日本の行く末を案じた。同じ道を日本も歩んでよいか。

 

9) 薬の運び屋か

 

肥満に関して、いま少し。いまどき珍しくもない話で、読み飛ばしていただいて結構。 滞在数日たつと、姉は「ご飯炊こうか」と気遣ってくれたが、「せっかくアメリカにきて、なにが悲しくて日本食を食わねばならんか」と、私は出される食事を楽しんだ。しかし、主食のハンバーグやホットドック、ハッシュドポテト、タコスなど、しっかりきかしたスパイスやケチャップ、マスタードで胃袋に押し込むもののように思えた。たまには美味しくとも、常食にしたいとは思えなかった。飲料水は、コーラ、ペプシ、パンチ、そしてビールなどが水代わりだが、ともかくいつも手にあるという感じだ。

子どもの笑顔のかわいさは万国共通

先にも書いたが、人はよく食いよく飲む。家でもレストランでも、出されるコーヒーカップ、グラスは優に日本の3倍はある。チップスの袋も日本の3倍はあった。NET WT 11oz.(311.8g]と書いてあった。

それでいて、アメリカ人の「健康志向」も半端じゃないようだ。いろんな食品の袋にも同じような文句が書いてあるので、姉に聞くと、「低カロリー」で、いまこれが「売り」なんだといった。

しかも移動はもう車。ほとんど歩くことがない。さすがだ。ドライブスルーまで生み出したアメリカ。

そしてサプリメント(補助栄養食品)だ。姉が母にと、ビタミンEだ、Dだと、たくさんのサプリメントを、先に帰る私に持たせた。私はヤクの「運び屋」か。あ、誤解しないでね。ほんとうのヤクじゃないから。

昔、「自分が肥満になったのは、KFC(ケンタッキーフライドチキン)に責任がある」という訴訟があり、「それは嗜好した個人の責任」だとし、KFCの勝利に終わったことがあった。それはそうかもしれないが、多くの人にとって、わけても子どもたちにとって、社会のありように逆らって、一人、暮らしをコントロールするのが容易なことか。

 

10) イエローリボン

 

おそらくシールかと思うが、ボディに「黄色いリボン」を貼った車が行き交っていた。最初見たときは、何かな?と思う程度だったが、何台もの同じ車に「なんだ」と思い、注意深くみると、白、ブルー、ブラックなど、いろいろな色があり、結構な台数なのだ。デローの家の前の家にもあった。

イエローリボン

もしかして?と、気がつくことがあり、姉に聞くと、やはりそうだった。イラクに従軍している兵士をもつ家族や友人が、その無事の帰還と戦功を願ってのアピールだった。ブラックのリボンは、不幸にも戦死した兵士を弔うものだそうだ。

私という一人の人間がわずかな期間に、オハイオ、ケンタッキーという限られた地域の、限られた路上で見ただけでも、これほど多くのリボンにであったのだ。アメリカがイラクに派兵した14万人という数のすごさ、アメリカという国の、そこに暮らす人々にとっての、事の大きさを知ることができた。

戦前の日本にも「千人針」という、身の嘆きを地域ぐるみで慰めあい、士気高揚の運動があり、「時の流れ」に異論を唱えることができないように仕向けられていった。同様なものなのだろう。

イラク戦争を、ブッシュをどう考えているかなど、アメリカ社会を二分するシビアな話題はなかなかできなかった。親戚のあいだでもあまり話題にしないと、姉はいった。

11)"所在なきとき"を楽しむ

 

初めての時差ぼけを体験した。結構きつくて3日間ぐらいは、真夜中の2時、3時に目が覚めて、昼間、眠たくなってたまらなかった。裏庭のソファで、別荘のハンモックでよく身を横たえた。

家にいれば、横になっていても「あ、そうだ、あれしとかなくっちゃ」と机にむかったり、電話一本でででかけるはめになったりするが、さすがここまできてしまえば、あれこれ気がついたって、なにもできない。まさに"所在なきとき"ばかりなのである。長い人生のなかで滅多ない日々だった。

森の木々、鳥

木々の向こうに湖を見下ろす別荘のベランダで、母と時間を過ごした。「お前もあと20年生きられーだか。ゆっくりすることもなかっただらーけん、こげな時間もよかろうが」と母はいい、「良い子どもたちに恵まれて、もういつ死んでも怖くない」ともいった。あと20年は、と言われて、ぞっとした。わが身がこの世になくなることを想像したら、急に怖くなった。まだ死にたくない!

姉とも、なんとはない時間を過ごした。「とっちゃんと、こうして10日間もいっしょに過ごせるのは、私が家を出て以来ね」と姉はいったが、兄弟姉妹でありながら、物心ついてからほんとうに始めての日々だった。私をまっすぐみる姉の眼は、弟への慈愛に満ちていたが、この先再び、生きて会うことができるかという不安も漂っていたのではないだろうか。

まだ、食品マーケットでみた豚の鼻、牛の頭のこと、トヨタ、ホンダ車などのこと、ごみの行方と、いろいろあるが、「60男のアメリカ初体験」は以上で一区切りとしたい。ご愛読ありがとうございました。

  
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