地雷を踏んだらサヨウナラ

開高健の『ベトナム戦記』に続いて、一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらサヨウナラ』を読んだ。一ノ瀬は、1972年から73年にかけて、カンボジア、ベトナムの戦場を撮り続け、73年11月、行方不明になったフリーカメラマン。

72年から3年のカンボジアといえば、アメリカに支援されたロン・ノル将軍がクーデターで軍事独裁政権を樹立。これに対し、中国からの支援を受けたクメール・ルージュと呼ばれた「共産軍」との戦闘が激化した時期だった。だがそのクメール・ルージュとは、ロン・ノルを倒し政権を握ったのち明らかとなるように、大虐殺をおこなった民族・民衆の敵だった。
彼もまた政府軍側からの取材にならざるをえなかったが、軍に隷属することをきらい、また「専属契約を」というUPI、朝日新聞などからの申し出を「自由な取材がしたい」と、断り続けた。そして血も凍るような戦闘場面から、荒廃したまちむらの民衆の姿をとり続けた。撮った写真を通信社やメディアに売り込み、1枚の50㌦、100㌦が彼の生活費となった。
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一ノ瀬泰造・彼の本より

一ノ瀬には、目前の戦争の性格、正義、不正義を問うことに関心がなかったように映る。戦場から彼は「明日は大きな戦いがありますように!」と母への手紙に書くように、ただただ、戦争という極限の画を撮りたかったのかもしれない。だがそれでも、カンボジアの民衆に溶け込み、戦塵、血肉の色に満ち、死臭ただよう戦場から、飢え、嘆き、困惑の巷をかいくぐった彼の作品は、世界の誌紙面やTV画面を通じて人々の心の扉をうち続けた。時代に“生きた”。これが一次情報の力であり、報道の原点ではないか。
死をとしてまで?という人があるかもしれないし、日本の大メディアはほとんど、イラク戦争の最中バクダットから記者を退避させたという。ここは柴田鉄治『新聞記者という仕事』(集英社新書)に詳しい。
「死を覚悟しても」と、いまの私に言う元気はないが、そこに戦火が止まぬ現場があり、そこで無辜の民衆が死にゆく現実があり、そこに追うべき真実があれば、まずは、そこに身をおき五官を総動員してこそジャーナリストではないか。その精神を問う。
戦争報道のことだけ言っているのではない。「発表ジャーナリズム」という言葉がある。食いはぐれのない安全地帯に身をまかせ、政権の庇護のもと第四の権力という心地よさに安住するマスメディアへの批判だ。気概は復活できるか、日本のマスメディアは。
一ノ瀬は、「この戦争になってから撮った者のいない、世界の注目するアンコールワット」に想いをはせ、訓練と準備と調査を重ね、愛用のニコンを持って一人地雷原に踏み出したのだった。
戦火のおさまったカンボジアに両親が入り、村民によって埋葬されていたわが子のなきがらと対面したのは1982年の2月だった。両親は、彼の愛したカンボジアの習慣に従って葬儀をおこない、遺骨の一部をアンコールワットの境内にある巨木ガジュマルの根元に埋めたのだという。
いま一度、アンコールワットを訪ねたいものだと思う。

Comments.

ゆっくり本を読む時間ができて、怪我の功名とでもいうのでしょうか。
たまにはのんびりしてください。

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