20日から決算特別委員会が続いています。一般会計や国保、介護、下水道など各種特別会計の平成19年度決算を審査する場です。私自身、充分事前チェックの時間がとれなく、前夜に次の日の内容をチェックする、自転車操業のようなありさまで申し訳ないことですが、でも精一杯、がんばっています。
いま中身を書く余裕がなく、終わってからにしますが、市有財産の管理のあり方、同和関連事業、職員の過重労働のこと、今日は幼児教育の位置づけなどと、問題を提起させていただいている。明日はごみ行政などの問題がある。

そこで、また手抜き。
麻生総理の「御名御璽」を批判した記事に、21日、「そのどこがおかしいというのか」というコメントがきました。
昨日、それをそのままコメント欄にアップし、私の見解もアップした。しかし、以前もそうしたように、コメント欄は目につきにくい。みんなで考える大事なことですので、この場にそのまま紹介します。
21日いただいたTKOさんからのコメント。
Posted: tko | 2008年10月21日 04:55
御名御璽をいただくという表現のどこがおかしいのでしょうか?
現憲法下において総理大臣は国権の最高機関である国会の指名と、天皇陛下の任命において拝命されます。
その為、御名御璽というのは総理大臣に任命される際には必要不可欠なものです。
また天皇陛下は日本国民統合の象徴ですから、へりくだった表現は当然の事と思います。
おなじく21日の私の返事。
Posted: sada | 2008年10月21日 06:53
tkoさま。コメントお寄せいただきありがとうございます。
「形式的には」おっしゃる通りかと思います。しかし、私たち人間は、すぐれて歴史的存在です。天皇の「御名御璽」のもとアジアと日本の民衆に取り返しのつかない苦しみを与えた歴史を忘れてはなりません。
この規定にあなたが同意なさるかどうかわかりませんが、「あの侵略戦争」。その「政治的支柱となってきたのが天皇制」です。戦後日本は再出発にあたって、その深い反省のうえにたって国民主権を確立、その国権の最高機関を国会としたのです。およそ戦前の政治制度と戦後のそれとは、まったく異質なものだというべきです。
それを、「御名御璽」による指名と国権の最高機関による指名とを同列におき、あたかも天皇による任命であるかのような発言。「118年になんなんとする、憲政の大河」とか、「新総理の任命を、憲法上の手続きにのっとって続けてきた統治の伝統」などという演説です。天皇絶対の時代と国民主権の時代との区別がつかない、明治憲法下のような歴史感覚というべきではないでしょうか。
「戦争の世紀」といわれた20世紀を超えて、「平和と友好の21世紀」への世界的な歩みが進むなか、私たち日本の首相の発言として、あまりにも恥ずかしく、耐え難く思うのは、「形式的」議論を超えた至極当然の「歴史的」感覚ではないでしょうか。
お考えいただくと喜びます。







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