娘や息子たちの少し前を生きた尾崎豊。その彼が26歳のあまりにも若い生を終えたのは17年前の4月25日。そう。明日は彼の命日。その死因は様々に語られたが、深夜、路上でキズだらけで倒れていたところを近所の住民が発見、そして翌日の死というニュースを聞いたときのショックはいまでも覚えている。
CDジャケット
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自分らしく生きることの難しい時代だった。彼の歌には大人がかってにつくりあげた社会や学校の不条理に、張り裂けるほどの苦悩、異議申立て、愛や夢を求めつづける心の叫びがあふれていた。
とあることから、改めて彼のことを知りたくなって、娘が買いためていたCDを聴き、全歌詞、残した文章、CDジャケット、写真など彼のすべてを記録した本=『尾崎豊・Say good-by to the sky way』(1992年7月17日発行/リム出版社)を入手して読んだ。
その本から、彼を知るためのいくつかの断片を紹介したい。
彼は決して不良だったわけじゃない。
「先生はポリシーがあって教えてくれているわけじゃないし、俺たちを愛しているから教えてくれるわけでもない。たまたま自分の業務だからこなしているだけだ。そんな愛情のない授業に出て、一定の基準に達したから免状をもらうのが卒業なのか」
彼はそう言った。
彼はよく怒られた。
怒られると、
「なぜ僕が悪いのですか。きちんと説明してください」と教師に迫った。
教師が
「校則だから」
と答えると、さらに詰め寄った。
「校則だからという説明ではわからない」・・・・・・
ロックンロールについて
彼の歌を聴いて、
「豊が辞めたから俺も学校を辞めた」
「俺も窓ガラスを割った」というファンがいることを知ると、
彼は、「そうじゃないんだ」と悲しんだ。
「僕はファッションでやってるやつらは好きじゃない。やみくもに反体制であればいいというわけじゃない。ロックンロールは人間と人間のきずなの意味を模索する表現のひとつなんだ」
と言っていた。
彼はよく事務所とぶつかった、二度事務所を変え、そして独立した。
「とにかく管理される側にいて、誰かにああしろ、こうしろといわれる状況では決して自由な創作活動はできない。自分で好きな言葉を、好きな詩を、好きな表現を時間をかけてつくるためには、自分でやるしかない」
「嘘をつかれるのも、ごまかされるのも、もうたくさんだ」
1991年3月、彼は心底信頼しあえる仲間たちとともに、「アイソトープ」という音楽事務所を立ち上げる。
作詞、作曲、アレンジ、すべてにおいて彼は新しい力を注いだ。彼は創作に入ると何もかにも捨てて、イマジネーションの世界に浸った。『放熱の証』という新しいアルバムが完成に近づいていた。彼はそこに新たな方向性をつかみかけていた。
しかしアーチストとしてのこの激しい仕事と社長業という激務は、彼の身体を蝕んでいた。彼の死因は肺に水がたまって呼吸困難に陥る衰弱死、肺水腫と診断されたのだった。
氷雨降る追悼式には約4万人もの若者たちが列をなした。彼らはみな、学校を休み、仕事を休み、子どもを預け、友人たちの約束を取り消し、確かな自分の意思でやってきていた。
献花の列は遅々として進まない。誰かが歌い始めた『卒業』は、いつしか美しい大合唱となった。 (同書より要約)
わが息子も高校一年の夏休みで、“や~めた”と革ジャンにチェーンまとってパンクロックの世界へ。理解しようと努めつつもとまどう日々、尾崎の歌に息子の叫びをきく想いでいたものだった。
尾崎の時代より、なお生きづらい世の中や学校にいまある子どもたち。私たち大人社会は、この叫びにまっとうな答えをだしているだろうか。
尾崎豊メモリアル・・・3曲、お届けしておきます。
『卒業』
『僕が僕であるために』
『I LOVE YOU』
尾崎豊メモリアル・・・「私の好きな歌も載せといて」と娘。そこで1曲追加。







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