日本キューバ友好協会が企画し、富士国際旅行社が運営。多くは年金生活者ですが現役世代もふくめ82歳から30代女性まで混在の、添乗員含めて18人の旅でした。添乗してくださったのは尾島礼子さん(写真右)。現地で6日間、ガイドをしてくれたのは、ガルシア・リベロ・スサーナ・マリアさん(真ん中)。左は現地のコーディネイター是永礼子さん。
ガイドのスサーナさんは、ハバナ大学外国語学部助教授も勤められている。
旅を支えてくださった方たち
7月20日、成田に集合し出発。サンフランシスコ経由、メキシコシティで1泊。この街は高度2200mという高地にある。さわやかな夜だった。
ヘミングウエイ常連だったレストラン
22日(現地時間)夕方、ハバナ・ホセ・マルティ国際空港に到着。やっとのキューバへ、暑つ! 一休み後、ヘミングウエイが愛したレストランで夕食。キューバ音楽を楽しむ。私は、『Hasta Siempre』をリクエスト。バンドのCD売上に貢献。壁には一面のサイン。ここを訪ねた人たちのサイン。この日、私は65歳の誕生日。そこで私も『Toshiyuki Sadaoka 08/07/22』と書いたのだ。
バスを待つ人々/ハバナ市内
23日、午前中ハバナ市内、モロ要塞、革命広場やカテドラルなどを見学。スペイン統治時代からの趣のある建築物が街行く人々、木陰で語りあう老人たちとしっくり溶け込んでいた。
革命の聖地と言われるサンタ・クララへ車で4時間。サンタ・クララでICAP(諸国民友好協会)と遅い昼食と懇談。チェ・ゲバラ記念霊廟、走行列車襲撃現場跡、革命広場など見学。さらに車で、サンクティ・スピリッツ市のホテルまで。
キューバを縦断するハイウエイ
24日、途中、バヤモ市で遅い昼食をとり、サンチャゴ・デ・クーバへ移動。8時間余専用車でハイウエイを走り続けるものの、まわりは一面のサトウキビ畑、ココナッツ林が続く、まるで緑の海を走るようだ。勤労者の賃金や医療システムから家族のあり方まで、ガイドのスサーナさん、質問攻めにあっていた。
サンチャゴ・デ・クーバの街並み
25日は終日、市内見学。モロ要塞、キューバ最古のコーブレ教会、ホセ・マルティ霊廟、旧市街。この街もスペイン統治時代からの建築物が大切にされていた。坂が多くカリブのサンフランシスコを呼ばれる。
ホテルの夕食のとき、一人の日本人青年とであう。「記念式典に参加したくてやってきた。キューバにきて13日」だという。私の「キューバには何を求めて?」との問いに、「社会主義とはどんなものか知りたくてきた。社会主義体制として50年続き、成功しているのはキューバぐらいではないか」と、彼は答えた。
7.26記念式典
26日、午前・午後、自由行動、のはず、ところが急に、添乗員の尾島さんから「現地の新聞から取材の申し込み。定岡さんお願い!」といわれ、10時半からホテルに特設されたプレスセンターで取材に応じる。そのあとゆっくり休み、午後少し旧市街を散策。夕方からキューバ最大のイベント、『モンカダ兵営襲撃55周年記念式典』に参加。最前列に日本の友好団の席が用意されていた。終了後2時間かけてオルギン市のホテルまで移動。夜12時前にチェックイン。
トロピカルショー
27日、これまた一路、ハバナめざして専用車で9時間の旅。ホテルで一休みし、夜10時から始まるトロピカルショーを観劇。パリのムーランルージュ、ラスベガスと並ぶ世界三大ショーの一つなのだという。仕掛けの大きいこと、演じられる踊りの華やかなること、歌のすごさなど、むべなるかなと思った。とくに男性ボーカルにはしびれた。
キューバで誕生日を祝う
28日、午前10時からICAP(諸国民友好協会)全国本部で懇談。ここでも代表してあいさつ。そのあと郊外の有機農場を視察した。ソ連崩壊で経済危機に陥ったキューバは、経済的自立のため食料の自給率向上に努める。都市部でも牛糞や生ゴミ、野菜くずなどの堆肥化、それを活用した有機農法を育成した。この農場ではいま20代の若者たちが中心となって13haを耕作しており、野菜からさらに観葉植物の栽培、肉牛育成にも広げるところだという。
農場では、訪問団のうち7月に誕生日を迎えた3人のために、ケーキを作ってくれていた。他の二人はご夫婦づれで入刀したが、私は一人だったため添乗員の尾島礼子さんが、「娘がわり」と手を添えてくださった。夕刻キューバを離陸、メキシコシティにて1泊。
29日、サンフランシスコを経由し、日付変更線を経て、30日午後の成田へ帰着。ほとんど寝ていた。