ただいま~です

 

ご無沙汰でした。キューバ友好と交流の旅から帰ってきました。強行日程に暑さ、水と食べ物にやられ下痢ぎみ。からだはクタクタですが、刺激的な国づくり、熱いキューバ革命、陽気な人々との出会いに、気分は最高!です。

キューバでであった人々

7月21日成田発、30日帰着。さすが地球のうら側でした。片道に2日、現地は6日間、キューバ建国と革命の聖地などを訪問、キューバ諸国民友好協会との2回の交流、そしてモンカダ兵営襲撃の7.26革命記念集会への参加と、なんとも強行な日程でしたが、中身の濃い旅でした。

さあ、どうお伝えするか。旅の途中からいろいろ悩みましたが、やはり、友好と交流のお気軽気分でまとめられればと思っています。しばらくお時間を。 今日はキューバで出会った人々を紹介しておしまい。だって、時差ボケ、夜中の2時ごろから目が覚めて、頭はまだ・・・。

 

まずは、旅の概況について

 

日本キューバ友好協会が企画し、富士国際旅行社が運営。多くは年金生活者ですが現役世代もふくめ82歳から30代女性まで混在の、添乗員含めて18人の旅でした。添乗してくださったのは尾島礼子さん(写真右)。現地で6日間、ガイドをしてくれたのは、ガルシア・リベロ・スサーナ・マリアさん(真ん中)。左は現地のコーディネイター是永礼子さん。

ガイドのスサーナさんは、ハバナ大学外国語学部助教授も勤められている。

旅を支えてくださった方たち

7月20日、成田に集合し出発。サンフランシスコ経由、メキシコシティで1泊。この街は高度2200mという高地にある。さわやかな夜だった。

ヘミングウエイ常連だったレストラン

22日(現地時間)夕方、ハバナ・ホセ・マルティ国際空港に到着。やっとのキューバへ、暑つ! 一休み後、ヘミングウエイが愛したレストランで夕食。キューバ音楽を楽しむ。私は、『Hasta Siempre』をリクエスト。バンドのCD売上に貢献。壁には一面のサイン。ここを訪ねた人たちのサイン。この日、私は65歳の誕生日。そこで私も『Toshiyuki Sadaoka 08/07/22』と書いたのだ。

バスを待つ人々/ハバナ市内

23日、午前中ハバナ市内、モロ要塞、革命広場やカテドラルなどを見学。スペイン統治時代からの趣のある建築物が街行く人々、木陰で語りあう老人たちとしっくり溶け込んでいた。

革命の聖地と言われるサンタ・クララへ車で4時間。サンタ・クララでICAP(諸国民友好協会)と遅い昼食と懇談。チェ・ゲバラ記念霊廟、走行列車襲撃現場跡、革命広場など見学。さらに車で、サンクティ・スピリッツ市のホテルまで。

キューバを縦断するハイウエイ

24日、途中、バヤモ市で遅い昼食をとり、サンチャゴ・デ・クーバへ移動。8時間余専用車でハイウエイを走り続けるものの、まわりは一面のサトウキビ畑、ココナッツ林が続く、まるで緑の海を走るようだ。勤労者の賃金や医療システムから家族のあり方まで、ガイドのスサーナさん、質問攻めにあっていた。

サンチャゴ・デ・クーバの街並み

25日は終日、市内見学。モロ要塞、キューバ最古のコーブレ教会、ホセ・マルティ霊廟、旧市街。この街もスペイン統治時代からの建築物が大切にされていた。坂が多くカリブのサンフランシスコを呼ばれる。

ホテルの夕食のとき、一人の日本人青年とであう。「記念式典に参加したくてやってきた。キューバにきて13日」だという。私の「キューバには何を求めて?」との問いに、「社会主義とはどんなものか知りたくてきた。社会主義体制として50年続き、成功しているのはキューバぐらいではないか」と、彼は答えた。

7.26記念式典

26日、午前・午後、自由行動、のはず、ところが急に、添乗員の尾島さんから「現地の新聞から取材の申し込み。定岡さんお願い!」といわれ、10時半からホテルに特設されたプレスセンターで取材に応じる。そのあとゆっくり休み、午後少し旧市街を散策。夕方からキューバ最大のイベント、『モンカダ兵営襲撃55周年記念式典』に参加。最前列に日本の友好団の席が用意されていた。終了後2時間かけてオルギン市のホテルまで移動。夜12時前にチェックイン。

トロピカルショー

27日、これまた一路、ハバナめざして専用車で9時間の旅。ホテルで一休みし、夜10時から始まるトロピカルショーを観劇。パリのムーランルージュ、ラスベガスと並ぶ世界三大ショーの一つなのだという。仕掛けの大きいこと、演じられる踊りの華やかなること、歌のすごさなど、むべなるかなと思った。とくに男性ボーカルにはしびれた。

キューバで誕生日を祝う

28日、午前10時からICAP(諸国民友好協会)全国本部で懇談。ここでも代表してあいさつ。そのあと郊外の有機農場を視察した。ソ連崩壊で経済危機に陥ったキューバは、経済的自立のため食料の自給率向上に努める。都市部でも牛糞や生ゴミ、野菜くずなどの堆肥化、それを活用した有機農法を育成した。この農場ではいま20代の若者たちが中心となって13haを耕作しており、野菜からさらに観葉植物の栽培、肉牛育成にも広げるところだという。

農場では、訪問団のうち7月に誕生日を迎えた3人のために、ケーキを作ってくれていた。他の二人はご夫婦づれで入刀したが、私は一人だったため添乗員の尾島礼子さんが、「娘がわり」と手を添えてくださった。夕刻キューバを離陸、メキシコシティにて1泊。

29日、サンフランシスコを経由し、日付変更線を経て、30日午後の成田へ帰着。ほとんど寝ていた。

 

陽気なこと

 

一番の感想は、キューバ国民の明るいこと!人懐っこい!ってこと。ちょうど7・26革命記念日前後の休暇だったことがあるのかも知れないが、街の広場や公園は、木陰でくつろぐ人々でいっぱいだった。行き交う人が「オーラ!(ヤアってぐらいのあいさつ)」って声をかけ、カメラを向けて「fotos ok?(写真撮って良い?)」というと、大概、喜んでOKだ。派手なリアクションまでつく。そこかしこで音楽が鳴り響く。

人々の表情は穏やかで、暗さがない。中南米特有の楽天的性格にもよるのだろうが、いっしょに歩いていた原田明美さんは、「暮らしに不安がないってことなんだなあ」と感心していた。

であった若者たち

説明によれば、労働者の給料は仕事の種類によって違うが、同じ仕事をしている人は同じ金額で、労働組合と政府との交渉で決まっていく。3年ほど前にもアップされたとのこと。10年程前は100ペソ(*1)だった最低レベルの人たちの給料は、いま、確か月200ペソだったと思う。

米、豆、油、せっけんなど食料や生活に必要な雑貨は、世帯人数に応じて配給され、子どもや高齢者や病人などのミルク、肉、卵などは特別支給される。価格は50年間変わっていないという。電気、ガス、水道などは安い。税金もない。

道端でゲームに興じる

「いま給料が充分でないのは事実。だが、医療は無料で教育も無料。私の子は大学にいって博士号をとったが、すべて無料でやってきた」と、諸国民友好協会のミゲルさんは語る。

「革命後は特別期間(*2)でも一回の未払いもなかった」とミゲルさんは得意満面に、言ったのだ。

日本人の私たちの感覚からすれば、暮らしの水準はまだまだと言えるだろう。大学の助教授でもあるスサーナさんは「私の給料は600ペソで高い方だが、人の暮らし様はさまざまで、楽ではない」とも語っていた。

広場のレストラン

しかしその国なりに最低生活を営む収入が保証され、医療費無料などいざというときのセーフティネットがあり、いまは充分でなくても先に良くなってゆく希望が社会にあれば、人はこうして歌って踊っていられるのではないだろうか。

そういえば、スサーナさんはこうも言っていた。「以前、私はロシア語の先生や通訳をしていました。しかしソ連崩壊でまったく環境が変わった。国は別な言語習得のために2年間賃金を保証してくれました。それで私は日本語を学ぶことができたのです」と。

沿道の人々は、観光バスに向かっても親指を立て「オーラ!」だ。私も応えるのだが、彼らの視線はいつも私の前にいる若い女性、原田さんだった! ウン、ニャロメ!

(*1)キューバでは外資導入のため1993年にドルを解禁してから、兌換ペソという通貨と国内でしか通用しない一般ペソとの二重通貨システムとなっています。ここでいうペソは一般ペソのこと。1ペソは概ね5円とお考えください。
(*2)1991年、ソ連・東欧の崩壊は、石油や食糧などソ連圏に依存していたキューバに大変な困難をもたらした。たとえばあらゆる経済活動のもととなる石油が、年間1300万トン消費していたのに500万トンしか確保できなくなる。車の往来は途絶え、一日の半分は停電した。スサーナさんによれば、「見てください。いまは牛馬がたくさんいますが、この広大な牧場に1頭の牛もいなくなったのです」という。 キューバは、自給自足経済の強化と観光産業による外資獲得など、さまざまな改革をおこない経済的自立へ歩むのですが、この困難な期間を「特別期間」とよび全国民で乗り切った。
 

マッチョな男もいまは

 

もう少し、暮らしぶりのこと。

車中、私はスサーナさんに、「家庭では男女、どちらが主導権を?」と聞いた。「もともとスペイン系。マッチョな男の国だったが、革命後すっかり変わった。いま、私が稼いだ分は私のもの。だけどよく相談する。最後は夫がリードすることが多いかも」との答えだった。

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カーニバルの準備

キューバ革命は、それまで大変低かった女性の地位についても多くの変革をもたらした。ラウル・カストロの妻が担当した女性連盟は、女性の就業の場づくりから始め、必要となる幼稚園づくり、つぎは・・と活動を広げた。いま、産休は周産前後1年、夫婦どちらでもOK。子どもが小さい間は1月1回ぐらい、母親が子どもの通院休暇をとれるのだそうだ。そして、国会議員の48%が女性となった。いずれもスサーナさんの話。

【08/08/25 追記】革命前13%だった女性の労働力率は、いま約60%となり、ラテンアメリカ諸国中もっとも高い。社会に占める女性の役割も高い。”医師の70%近くが女性”で、特に産婦人科、皮膚科、小児科や内科はほとんどが女性医師だという。科学者などの専門職は60%以上が女性。 ------------『小さな国の大きな奇跡』吉田沙由里著・WAVE出版より
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ヒッチハイクの青年たち

ついでに「社会主義=悪平等論」について。 職種によって給料が違うということに、まずは、やはりそうか!と納得した。キューバではたとえば手作業や肉体の単純労働から、サービス労働者、行政部門の労働者、医師や教師や技術者・・・など、求められる資質、習得にいたる努力の違い、社会的役割の大きさなどによって給料には差があるのだ。がんばったものは報われるのだ。

そして改めて「教育の機会均等」の大事さに気がついた。人生の出発点たる教育の機会が無料ですべての国民に開かれていることが大事なのだ。そのうえでなら、がんばった者、努力した者がそれにふさわしい報酬をうることは社会が容易に合意できることだ。このシステムが機能する限り、「社会主義では怠け者が得をする」などということにはならない。誰もが未来に希望をもって勉学・努力するだろう。

だからキューバはいま、高等教育機関が発達し、中南米やアフリカ諸国、「108ケ国に医療、スポーツ、教育分野で4万人近い専門家を派遣する(*3)」という稀有な国となっているのだ。

行ってみて実感できたことの一つだった。

誰かが「残業はあるのか?」と聞いた答えに驚いた。精々、残業手当のことで聞くべき話でもあるかと思ったが、答はこうだ。「残業はない」。早出とか遅出とか、職種によって違いはあっても「残業はない」というのだ。いったい日本のサービス残業って、なんなのだ!

 

私たちは国賓?

 

私たちが泊まったホテルは、それぞれ立派できれいだった。ハバナでは新市街にあるオキシデンタル・ミラマール・ホテル。24日、25日は、ではスペイン外資系のメリア・サンチャゴ・デ・クーバ・ホテルだった。

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メリア・サンチャゴ・デ・クーバ・ホテル

7・26革命記念日のため、このメリア・サンチャゴ・デ・クーバ・ホテルは、外国人がごった返していた。それでいて少しもいこごちの悪い想いなどなかったのだが、政府要人たちもだろうか、軍服姿や要人警護らしいものがあちこちにいたし、TVクルーもたくさん宿泊していた。

取材を受けて知ったのだが、プレスセンターも特設されていた。

そんなホテルに泊まったのだ。あとで聞いた話だが、今年の革命記念式典がサンチャゴ・デ・クーバでと決まったあと(*4)、関係者の宿確保のため予約済み客の他のホテルへの変更なども含めて、いろいろな折衝があったらしい。それでも私たちの部屋は確保された。

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中央が演説するラウル・カストロ

入りたくても入れない人が万余といるというのに、革命記念式典で、私たちの席は最前列に用意されていた。

式典が終わったのは午後9時ごろだった。明日の夕方にはハバナにいなければならないため、少しでも近いところまで今夜のうちにと、オルギンという街まで走ることになっていた。約2時間。そのバスをパトカーが先導したのだった。「少しでも早くホテルに送り届けるため」だと。

いったい私たちは国賓か?

28日、ハバナでの諸国民友好協会本部との懇談で、私はそのことにふれて「友人への温かい想いを受け取りました」と感謝したが、ともにたたかうもの同士の、国際的な連帯意識がとても大きいのを知った。

 (*4)毎年、革命記念式典の会場は変わるのだが、2週間前にならないと発表されない。そのため、私たちの日程も二転三転したのだが、国内にまだ反革命勢力がありテロも懸念されるなかで取られる措置のようだ。
 

なぜか、トイレ事情

 

キューバに入って4日目ぐらいからお腹の調子が狂った。不規則な睡眠、なれない食事、疲労からだろう。そこで一番付き合いの深まったのがトイレ。

ナニが流れないところなどいくつも。あるレストランでは、ほら、なんて言うんだろう、馬蹄のような形をしたやつ。男が小便するとき、あれは立てとかなきゃ汚れるじゃないか。ところがしゃんと立たない!立てておいておもむろに両手でズボンのファスナーに手を伸ばし・・、バタン!なんどやってもだ。がまんして出てきた。

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モロ要塞

後で聞いたら、「私は左手で支えておいて右手で・・・」という御仁がいた。結構前かがみになるよ、そのかっこを想像して!

これぐらいはお笑いですむ。モロ要塞では、場所柄、やむをえないとも思うが、がまんしきれず、「バーニョ(トイレのこと)」、バーニョと行くと、前に陣取るご婦人が「待て」のポーズ。やおら手にバケツをもって、汲み置いた水をすくいトイレのなかへ、そして中から、「バシャッ」の音。25センターボ(日本円で約30円)を渡してトイレに入ると、紙がない。もう一度戸を開けて、「no paper」というと、おもむろに胸元から紙をだす・・・。もう、やだ!

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スペイン統治時代の豪商の家

ご飯前なら、つぎは読まない方が良いかも。

サンチャゴ・デ・クーバの旧市街は、歴史的な建物が数多く残る、坂の多い街で、カリブのサンフランシスコとも呼ばれる魅力的な街だ。

昼ごろ、やはり調子が悪い。通りがかりのライブレストラン、有名なところらしい。そこに入る。トイレにやはり紙なし。あわてて紙をもらって入ったが、水を流す栓が壊れているのだ。我慢も限界、知るか!あとは野となれ山となれ! もう言わない。

スサーナさんに公衆衛生についてうかがった。

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街を清掃する人たち

「革命前のスラムは、公営住宅の建設で一掃された」。実際、そういうところは見あたらなかった。「手を洗うとか、シャワーを使うといった公衆衛生思想はずいぶん改善した。都市部では上水道、下水道整備も進んでいるが、歳月のたった旧市街で設備の老朽化が進んでいて、課題となっている」のだと彼女は語った。

7・26革命記念日の演説で、ラウル・カストロは、サンチャゴ・デ・クーバなど東部地域での水道などインフラ整備の遅れに触れ、来年中の整備完了を約束した。  街並みは概ね清掃も行き届き、きれいだった。

 

建国と革命の記念碑

 

キューバは1492年、コロンブスによって「発見」された。着いたのはいまのオルギン辺りとのことだが、かれは、「人間の目がみたいちばん美しいところ」と評したのだという。

スペイン人による植民地とされ、島にいた20万とも30万人ともいわれていた先住民族は、強制労働や疫病によってほとんどが絶滅したといわれる。イギリス、フランス、ポルトガルなどの海賊の度々の襲撃の場にもなり、モロ要塞などが建設された。

ホセ・マルティ彫像/サンチャゴ・デ・クーバ

スペイン植民地として19世紀半ばには世界最大の砂糖生産地となったが、その圧制に抗する民衆の闘いとスペインからの独立の運動がおきる。この独立戦争の精神的支柱、指導者となり、キューバ史における英雄としていまなお、国民的尊敬の的になっているのが、ホセ・マルティ

1898年 米西(アメリカとスペイン)戦争の米国側の勝利で、1902年、キューバ共和国が成立し、キューバは400年に及ぶスペイン支配から解放され、独立を勝ち取った。

しかし、それは米国支配の始まりでもあった。1901年、キューバ国憲法に米国の内政干渉権が書き込まれ、グアンタナモ軍事基地を置くことが盛り込まれていた。アメリカ資本が数多く進出し、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配することになった。

列車襲撃記念碑/サンタ・クララ

1952年、アメリカ政府と結託したバティスタがクーデターで政権を奪取し、バティスタ独裁政権が誕生。

アメリカからの独立、バティスタ政権打倒へ、1953年7月26日、弁護士フィデル・カストロたちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わる。


チェ・ゲバラ記念碑/サンタ・クララ

亡命したメキシコで、カストロはアルゼンチン人医師のチェ・ゲバラと運命的な出会いをする。彼らは1956年12月にヨット「グランマ」号によるキューバ上陸をおこない、2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日、ついにバティスタを国外逃亡に追い込んだ。キューバ革命政権の誕生である。

 

Dr.コトー診療所が

 
映画『シッコ』を観たことが、今回のキューバ行きの直接の契機だったのですが、医療については、ちょっとしたスサーナさんの話以上に見聞することもなかったし、もう結構知られていることだから、と省略するつもりでいたのですが、「どうだった?」・・いろいろ聞かれるなかで、やはり、書いておかねばと思い、予定になかったのですが追加します。
ハバナ市街地

「平均寿命は76歳。乳幼児死亡率は0.07%」とミゲルさんは誇らしげに語った。先進国に遜色ない寿命だし、アメリカの乳幼児死亡率を下廻る。革命前の平均寿命は55歳、貧困層は、病気になってもお医者にいけなかった劣悪な状態を思えば、すばらしい成果だ。

革命政権が即座におこなったのが医療改革で、農村を中心に何百もの病院や診療所、医学校の建設、大量の医学生の受け入れ、医師の養成、無医村への派遣・・などをおこなっていった。いま220人の国民に1人の医師。これは世界一の環境ともいえる。国家予算の10%が医療に注がれている。

医療技術も高い。バイオテクノロジーを生かした薬品やワクチン開発では先進諸国とならぶ成果をあげ、バスのなかでスサーナさんは、「先月のニュースですが、肺がん治療のワクチンができた。キューバ人は無料で受けられるようになる」といった。

農村の風景

しかし技術だけではない、その医療システムと「保健思想の重視」にこそ、キューバ医療の真髄がある、と私は思った。

すべての地区、地区に、150世帯500人程度を担当するファミリードクター制度が張り巡らされている。大事なことは、医師が来診や往診を通じて、すべての住民の健康状態をきめ細かく把握し、大事に至らないように予防に心がけていることだ。そう、『Dr.コトー診療所』が全国各地にあると思えばよいか。高血圧や風邪などちょっとした体調不良などはここで治療するのだが、患者は必要に応じて地区診療所にいく。さらに症状に応じて最後の総合病院まで受診、治療の道が用意されているのだ。この医療システムの全体がすべての国民に無料で提供されているのだ。

店番をしていた女性

1950年、革命後設置されたばかりの公衆衛生省の研修課程開設式で、医師でもあったチェ・ゲバラは、医学生にむけた演説で次のように語っている。誤解のないように注意深く読んでいただきたいが、彼は医学と医師の任務について語る。

「病気との闘いは、丈夫な体を作るという原則に基づいていなければならない。だが、医師が芸術的な仕事によって、弱い器官の上に丈夫な体を作るのではなく、集団全体の労働によって、その全社会集団の上に丈夫な体を作るのでなければならない。

そうすると、いずれ医学は、病気の予防のために使われる学問、医学的な義務に人民の目を向けさせる学問へと、変貌しなければならないだろう。そして、極めて緊急の場合に外科手術を行なったり、われわれがつくりつつある新しい社会の性質では補いきれないような何かをしたりする必要があるときだけ、医学が介入するべきだろう」。 ・・・・・・『モーターサイクルダイアリーズ』の巻末に採録された演説より

 

キューバの陰

 

バケツでバシャ!のモロ要塞でのこと。いやもうトイレの話じゃないって。用を足し、すっきりしてでてきた私をまっていたのは、例のご婦人だった。「1ペソ」、「ウノ(1のこと)」と手をだすのだ。なんかずいぶん迷惑をかけた気になっていた私は1ペソを握らせた。すると隣の婦人が手をだす。「まあ、いいか」と渡した。

すると別な婦人が、カメラをもっている私を捕まえて「イグアナがいる」と言うのだ。もう魂胆はお見通しだ。行くだけいって写真も撮らずに引き上げたが、どこまでも追いかけてくるのだった。断固として拒否をした。

私は悲しかった。

ショップにはパソコンが

ソ連崩壊で壊滅的ともいっていいほどの危機に陥ったキューバは、外資の獲得のために、外国人観光客の積極的受け入れを始めた。ドルの解禁をおこなった。しかし、雲泥の差のペソそのままでは、キューバ丸ごと買い占められかねない。そこでキューバ政府は、1ドル=1兌換ペソという通貨をつくり、外国人はその兌換ペソにしか交換できず、それしか使えないしくみをつくった。従来のペソは国内だけに通用するローカル通貨となり、一般のキューバ国民はこのペソで生活する。二重経済の発足である。やむをえない措置といえるだろう。

祭の準備、街の雑踏

燦々と太陽の輝くカリブの海、ヤシの葉陰にそよぐ風は、多くの観光客をひきつけた。パラデロ海岸は有数のリゾート地となり、キューバはいま世界の一大観光地となった。外貨収入は増え、国民の暮らしをささえる財源となっている。しかしそのいっぽうで、兌換ペソやドルにアクセスできるものとできないものとの格差が広がることになった。

モロ要塞のおばちゃんたちが一日に10人の観光客から1兌換ペソもらったとしてみてください。そういう場のない人たち1月分の給料を一日で稼いでしまうことになる。兌換ペソの店でしか買えない高級品が買えることになる。「苦学する必要がどこにある?」、「医者がなんだい、楽して稼いで、あれこれ買おうぜ」ということになるのは目に見えているではないか。

取材を受ける私

26日、サンチャゴ・デ・クーバで取材を受けとき、キューバにきた感想を聞かれたあと「最後になにかあれば?」と言うので、私は次のような感想をのべた。

「当然ながらキューバの人たちがご自身で決める問題ですが、キューバにきてみて二重経済がもつ問題の深刻さを知りました。ヤミ経済(スサーナさんはブラックマーケットと通訳していた)の温床になる危険を思いますし、キューバ革命がいちばん大切にし、国民的団結の支柱としてきた"社会的公正"という精神を蝕むものではないでしょうか。25対1というペソと兌換ペソとの間を埋めるのは、たいへんな大仕事だと思いますが、成功を期待したいと思います」。

記者は、「キューバの良いところ悪いところをきちんとみていただいてありがとうございます」と結んでくださったが、余計なことを言ったのだろうか。

 

スサーナの涙

 

23日の交流の席でミゲルさんは、つぎのように語った。

「革命前には21もの政党があった。いま政党は一つだ。それは民主主義がないと言われるが、文盲の一掃、医療、教育の達成は共産党一党のもとで解決した。何のために他の政党が必要か。キューバ人として私は、私を守る、私の子どもたちを守る政党が必要なだけだ。」その結論はともかく、ミゲルさんのこの想いは実感そのものなのだと思う。

スサーナさん

ホセ・マルティの彫像のよこで、あるいは革命広場でフィディルを語るスサーナさんの表情に、私は惹きつけられていた。現地新聞の取材でキューバにきた感想を聞かれて、次のような話をした。

「ガイドのスサーナさんの、ホセを語るときの表情、フィディルを語るときの目に浮かぶ涙に、単に職業としてではない、それを超えた彼女の自国への深い愛、革命への誇りを、私は感じてきました。国民の願いと政府とがますます離反してゆく日本からきて、政権と国民とがこんなにも近い、深く結びついている姿に感動しました。そこにキューバ革命の強さをみました」。

もし、カストロ政権が国民の願いに逆らう独裁政権だとしたら、あの食料にも事欠いた「特別期間」も含めて50年、さしたる暴動もなく(*5)政権を維持することができただろうか。

「街のノラ犬も餓死した」と言われる経済困窮を、食料の緊急輸入や石油や化学肥料に依存しない有機農業の展開などによって、キューバは1名の死者もだすことなく乗り切った。その財源はどこからだしたか。

キューバは、この特別期間、軍事費を55%と半分に削減したのだ(*6)。アメリカの経済封鎖と軍事的脅威のもとで苦渋の選択だったことだろうが、そこには「政治とは国民の暮らしをまもるものだ」という、政権のゆるぎない思想がある。だから、国民はその政権を愛し政権を守る。

(*5)暴動 1991年のソ連崩壊による経済危機で、「革命前も含めてそれまでのキューバにはなかったような物質的な欠乏状態が起ったにもかかわらず、不満は1994年に一度暴動として爆発した以外は、目立った反発もなく、政権は安定した体制を維持している(山崎加奈子『ワールド・トレンドno.121』2005.10)」
(*6)『世界がキューバ医療を手本にするわけ』 吉田太郎著・築地書館による
 

チェ・ゲバラは好きか

 

道中、隣り合わせた年配のご婦人から質問をうけた。「ゲバるという言葉があったように、ゲバラがかって極左的な暴力集団から象徴のように扱われ、権力はそれを攻撃の材料にしました。定岡さんはゲバラをどう評価しますか」。

ビルの壁面にチェ・ゲバラ

考えながらの回答になったが、およそ次のような話をした。

「私はゲバラが大好きです。Tシャツも買っちゃいました。彼らの闘争が武装闘争という形になったのは、その国のその時代の情勢がもたらしたもので、大事なのは彼を貫く、虐げられた民衆への限りなき愛情、社会正義実現への死をも恐れぬ不屈の闘争心です。私のこころを捕えるのはその高潔な精神性です。

支配と収奪の仕方は当時のキューバと日本では同じではありませんから、形態は違いますが、日本でも民衆と資本とのたたかいは続いています。戦前には小林多喜二に代表される日本共産党員のたたかいがあり、いまも民衆の側で日本共産党は不屈のたたかいを進めています。だから私は共産党議員なんです」。

暑い国が似合うハイビスカス

訪問を前にして、私は「カストロの独裁政治を良しとするのか」という質問をコメント欄に寄せられたことがある。書いたように独裁政治を良しとする気は毛頭ない。いまになって思えば、私の言いたいことは結局、国民の上にたつものの精神性についてではなかったか。

私は5月、東京で、オリバー・ストーン監督の「コマンダンテ」という映画を観た。監督がフィディル・カストロに密着したドキュメンタリーだが、そのなかでオリバーに「独裁者か?」と問われ、カストロは次のように答える。「そうだ、自分自身にたいして独裁者であり、国民の奴隷だ」と。

権力の座50年にして、アメリカの経済封鎖という困難のなか、少しづつながらも労働賃金を引き上げ、年金を引き上げ、医療レベルの向上をと、日々革命の初心実現へ指導し続ける。堕落することのない高い精神性。そこが国民を引きつけるのだろう。

  
 

スローライフ

 

いやまてよ。この革命勝利の秘密は難しいこっちゃなく、どんな困難もへっちゃらな、歌ってりゃ幸せ、踊ってりゃハッピーな国民性にこそあるのではないか・・・どこの街でも、人が集まれば誰かが奏ではじめ、音が聞こえたらすぐ体が動き歌が始まる、彼らを見ていて思ったりしたものだ。

彼らは音楽さえあれば生きていける!のだ。そして人々から音楽をとりあげることなど誰にもできない。たとえアメリカでも。

みんなで国づくりに向かっていけるのも、その秘密は「音楽」ではないか?

音楽する顔

そして、街にはマニアなら垂涎のクラシックカーが走る、走る。あちこちの路上で、ボンネットを開けて修理中の車もたくさんみた。自分で治して走るのだろう。この国には車検なんて、ないのだろうなア。この風景にノスタルジアも感じたが、排気ガスはすごい! 「環境先進国」キューバよ、CO2はどうなるのだ? と心配もしたが、もしかしてガンガン、モデルチェンジして新しい車を買い替える日本よりクリーンか?!。わからない。

アメ車、アメ車

馬車が普通の交通機関として使われていた。誤解のないようにいっとかなきゃ。「昨年1年間だけでも1、000台の新しい大型バスが中国から輸入され、市内バスや通学バスとして使われ、今年はもっとたくさん輸入を予定している」とのこと(スサーナさん)だし、私たちは目にする機会がなかったが、立派な鉄道車両も走っているのです。

馬車

多くを求めて競い合い、疲れ果ててゆく私たちの人生。多くを求めず、いまあるものを大切にし、ゆっくり暮らせるキューバの人々。なんか、惹かれるなア。

そういえば、こういうこともありました。

有機農場でのこと。訪問団の一人が「1年間の売上金額はどれぐらいですか?」と聞いた。農場主の答えはこうだった。「わからない。今日食えて明日の心配がなければ、それで良い」。

エッ、ほんと!かい。日本じゃ原価がいくら、減価償却は・・って、たいへんなこっちゃ。

「今日食えて明日の心配がなければ、それで良い」・・・う~ん。

 

しゃべってみることだ

 

公園の木陰のベンチはどこも人でいっぱいだ。からだを休めに座る私の隣にはおじさん。黙っていてもはじまらない。「オーラ!」と声をかけ、「カロール、カロール(暑い!)」とTシャツをハタハタさせる。おじさんが「カロール、カロール」とにこやかに応える。これで日・キュー友好の会話成立である。それ以上はできないんだけどね。難しくなったら、「ノー、エンティエンド(わからない)」。

木陰はどこも人でいっぱい

23日の諸国民友好協会でのあいさつを、私は次のようにはじめた。

ブエナス タルディス。ムーチョ グスト。メ ヤーモ トシユキサダオカ。ハポン」。「こんにちは、はじめまして。私は日本の定岡敏行です」って言ったつもり。通訳のスサーナさんも含めて、みんな思わぬ展開に、えって感じ。

サンタクララの友好協会であいさつする私

でも、ここまでよ! 

「一生懸命勉強してきたけど、ここまで。あとは日本語で・・・」。場はいっきょに和みます。

28日、ハバナの友好協会本部でのあいさつは、別れの日でしたから、この間の感想を述べたあと、

「みなさんとフィディルのご健康と長寿を願う私たちの気持ちをお受け取りください。社会正義のためにたたかう諸国民の希望であるみなさんの仕事の成功を願っています。アスタ デ ラ レボリユ―ション シエンプレ」と結んだ。「革命よ永遠の勝利を」って意味。かっこいい!フィディルみたい!と思ったが、スサーナさんに「レボルシオン」って訂正され大笑い。ここでもみんなの気持ちが和らいだのです。

出発前のにわか勉強。なかなか覚えられないのですが、覚えたことは使うことで身につくし、なにより使うのと使わないとでは、気持ちの交流がまったく違うのでした。海外旅行の想い出がずっと豊かになること間違いありません。

  
 

最後の闘争

 

素敵なところへいけば、想い出のつまったお土産を買いたいのは人の常。交流団の人たちもしっかり買い込んでいた。しかし、アメリカ・サンフランシスコ経由で帰る私たちには「最後の闘争」がまっていたのです。

立ち並ぶ露店で

アメリカはキューバ製品の持込を禁止している。「ありがたい」ことに、たとえ「通過」であってもだ。国内法で他国の人々の財産移動を禁じたり没収する!ここでも「なんという国だ!」だ。

キューバ政府も心得たもので、パスポートに入国、出国審査のハンコは押さない。ツーリストカードというのを発行し、それで処理する。だから公式にはキューバ入出国の記録はどこにも残らない。私たちはアメリカからメキシコに入り、メキシコで過ごしアメリカに入るだけなのだ。

尾島さんは「保証できない」と言いつつ、お土産やさんを紹介している!

私は「キューバ葉巻を買ってきてくれ」と頼まれていた。商標ラベルがあったらバレるではないか?と心配していたら、ホテルでおじさんが手巻きの実演をしながら売っていた。ラベルがない。あとコーヒーだ、ゲバラのTシャツだと買い込んだが、新聞でつつみ下着に包んで、スーツケースへ。7・26を報道するキューバ共産党の機関紙『グランマ』も惜しみながら捨ててきた。

葉巻をまくおじさん

私の同室だった小林さんは、ゲバラTシャツを3枚、裏返し下着代わりに着込んで税関に向かった。暑いことだ!

「○○さんは、葉巻を買い込んでいたよ。私たちまで類が及んだらどうするの」と心配尽きない人もいた。メキシコ空港を立ちサンフランシスコ空港に着き、近づく入国審査に神経はピリピリだった。

審査窓口で、指紋を取られ顔写真を撮られ、どこからきたか?と聞かれ「メキシコ」と答える。

最後の一人が終えたとき、なんと、ホッとしたことか。

私たちは勝った。彼らも草臥れていたのかな。

  
 

経済封鎖と情報戦争

 

土産物のことを書いたように、キューバはアメリカの厳しい経済封鎖(*7)のもとにある。アメリカとの取引だけではない。「トリセリ法」という国内法によって、アメリカと貿易関係にある国にキューバとの取引を規制するのだ。

たとえば、一泊したオルギン県は、世界で2番目のニッケル産出を誇るところ。経済制裁以前、1970年代までは日本も大量に輸入し自動車生産に使われていた。それが、いまはストップされているのだと、スサーナさんは言った。

家々には7・26を祝う旗が

アメリカの妨害でキューバは世界銀行やIMFの援助も受けられないでいる。メモしないでいて忘れたが、キューバが受ける経済的損失はどれほどのものか。

経済封鎖だけではない。カストロ暗殺のたくらみは数々摘発されたし、いまもラジオでTVで、「自由あふれるアメリカ」の宣伝が降り注がれ、不法出国があおられる。海岸には大量の麻薬が漂着する。

のど元に生れた社会主義政権。「自由と民主主義」の国、アメリカにとってはあってはならない国というわけだ。

キューバはいまでも「戦争」の最中なのだった。徴兵制があり、ハイウエイのあちこちには、いざというときに米軍機が滑走路代わりに使えないようバリケードする鉄のツメみたいなものも置かれていた。

バリケード用の鉄のツメ

ホテルでも空港でも、すこしタイプは古いがPCはたくさん使われていた。見聞きした話を総合すると、学校でもコンピュータ教育は重視されており、教育機関やビジネスや工場などではしっかり活用されている。

高等教育機関や研究機関などではインターネットへのアクセスも可能だが、家庭では大学助教授のスサーナさんにしても許可が必要なのだという。彼女のPCは日本語環境もあって、私ともメールの交信ができる。

ラウルになってPCの購入も自由になったが、とても高価で、家庭への普及はまだまだ。一般には郵便局に数台のPCが置かれていて、イントラネット(国内だけのネット)は接続できる。

キューバには「情報の自由がない」と言うこともできるだろう。しかし、さしたる社会的準備もないまま、裸で狼の群れ(バーチャル空間、ネット世界)の中に子どもたちを投げ出したツケの大きさ、アメリカ発信の消費文明に浸りきってきた日本社会が、いま、反省の時を迎えていることを思えば、その徹を踏まぬための、賢明な準備の期間とも言えるのではないだろうか。

(*7)このキューバ経済制裁の解除を求める決議が毎年、国連で議決されている。今年はもっと増えたという報道を読んだ覚えがあるが、05年現在でも、「183ヶ国が解除決議に賛成」している。
  
 

革命はいまも進行中

 
思ったより長くなってしまいました。いよいよ結びとします。研究論文でもない、紀行文とも言えない、いったい何だったんかと思いますが、ま、感じたこと、学んだこと?の羅列だったでしょうか。
国情も歴史も違う国です。結論だけもってきて、さア、日本で!というわけになりません。しかし「政治とはなにか」、ずっと日本の政治のありようとこれからの国づくりを考えながら旅してきたように思いますし、大事なことを学んだ旅でした。
これからの活動に生かしていけるものと考えています。
ご愛読ありがとうございました。
燃えるような火炎樹

この経済封鎖のなかでキューバはさらなる国民生活の向上にとりくむ。7・26記念式典でラウル議長は、ここ数年の経済成長とともに問題となってきている低賃金、汚職、格差の解決にあたるとともに、「貧困や飢餓の削減、平均寿命の延長など革命の成果を今後もまもり、前進させる」ことを約束した。

これまで、キューバ国民は「不平等をふせぐ」ということで外貨支払いホテルの宿泊やレンタカーの使用、家電製品の購入などを禁止されてきたが、2月以降ラウルは、この過剰な禁止条項の緩和に取り組んでいる。7月11日の国会では、斬新的な賃金の引き上げとともに、"所得の平等"ではなく"権利と機会の平等"を重視するという新たな方針も示した。

いまも革命は進行中なのだ

私たちの質問にスサーナさんは、いま三つのことで国民的ディスカッションの最中にあるといった。一つは食糧増産のために、使われていない農地を耕作したい人に用益権を付与する法律について。もう一つは、8000人不足する教師の確保のため、退職教師の再雇用をすすめる。その促進のために年金との差額を支給し現役時代の給与を保障する法律。そして年金改革だ。

いま男60歳、女55歳の支給開始年齢を、平均年齢(76歳だそうだ)の伸びに従って、5歳づつ引き上げるいっぽう、いま65%の支給額を現役時代の80%に引き上げるという方針についてだという。「ラウルは、反対意見もよく聞きたい」と言っていると彼女は付け加えた。

諸国民友好協会のミゲルさんが、「みなさんはよく"キューバ革命後"と言われるが、キューバはいまも革命の進行中だ」と言ったが、そのとおり。なんぞかんぞ、キューバはいまも革命まっただなかだった。

  

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