3) ガンジー・・・

家は海に近い松林の中だった。波の音で目を覚ました。木に登り、昼に夕に泳いだ。坊主頭に真っ黒な顔。それが丸いメガネをかけたものだから、あだ名は『ガンジー』ということになった。インド独立の父、マハトマ・ガンジーには申し訳ないが、真っ黒な顔、丸メガネが、よれよれのランニング姿では、いかにも!だった。 議会にでてからよく「なんでそんなに顔が黒いの」といわれるが、年季が入っているのだ、文句あるか。

神社ウラの森も探検、ターザン・・格好の遊び場だった。木から落ちた痛み、友達の顔に大変な怪我をさせた過ち、同級生が海で死にかけた・・全身で自然と向き合う遊びのなかで、生きる意味を体得していった。

実によく遊んだが、実によく本を読んだ。寝床でもむさぼった。目が悪くなるのは当たり前で、小学校5年の5月5日にメガネをかける羽目となった。いま、視力は裸眼で0.01というレベル。よう運転できているものだ。周りの車には気をつけて欲しい!しかし読書は、時空を超えて子どものこころを解き放つ。私はジンギスカンになり、ガガーリンになった。

いまの子どもたちの不幸を想う。どこから回復できるのだろうか、私にはまだ答えが出せない。

2) 貧乏だったが・・・

敗戦で仕事を失った親は、大篠津に移った。5人の子どもを抱えて一からの再出発だった。父は、海水を大釜で炊いて残った塩を集めた。めり込む砂地を大八車で海水を運ぶ労働は、どんなものだったろう、と思う。母は、奥行きをやった。浜でできた煎り干しを担いで山奥へ入って、米などと交換して帰る。米の勝手な売買は禁制だった。警察に問い詰められたこともあったが、生きるため母は強かった。

やがて家も建ったが、子どもも遊んでばかりはいられない世の中だった。鶏、ブタ、ヤギなど家畜の世話、焼け畑の水まき、肥(こえ)タゴかつぎ・・・。風が吹いた翌朝は、競うように松葉かき、それで風呂や台所の焚きつける・・・。きりがないから止めるが、父が働き母が働く、生きるための当然のこととして姉も兄も、私も働いた。貧乏だったが、それが心を育てた。生きるすべ、さまざまな智恵もまた育んでくれた。

小学校6年のとき、先生が「良い百姓は、肥の良し悪しをどう見分けるか」と子ども達に聞いた。私は「なめてみます」と答え、一人正解だったことを思い出す。「肥」とは「糞尿」のこと、これがタダの肥料で、完熟の具合は、なめてみたのだ。これは「知識」ではない。「暮らしの知恵」、生きるすべだった。貧乏が良かったのではないが、「人」を育むものはなにかを考えてみたい・・・そう思って書いた。このときの矢倉尚先生は、もういない。

1) 生まれたのは

この10月、市役所のある部長の両親が立て続けに亡くなられた。たいへんご不幸なことだった。通夜にうかがったが、そのご自宅が実は私の生れた家。市議会へでて部長とお会いするようになって、その奇遇に笑いあったものだった。戦時中、父が渡村で野菜の乾燥工場をやっていて、港のすぐそばのこの二階家を借りていたらしい。昭和18年7月22日、そこで生まれた。

一票を争う選挙とは因果なもので「渡生まれの定岡で〜す」と言う。戦後すぐ大篠津に移ったから不審を感じた人もあったろうと思うが、この近所を訪問すると、おばあちゃん達が、「ワシも工場で働いていたで」とか「おじいさんには世話になったワ」、「オー覚えちょうで、姉さんにオブってもらって、ハナたれとったが」と懐かしんでくださる方々がたくさんいらっしゃった。ありがたいことだった。

順次、書いていきますが、こんご《新着情報》には記載しません。”Dont’look”ですから・・・。それでは。

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