マジェスティックホテル

 

1月3日夜、私たち家族4人は、サイゴン河畔に建つマジェスティックホテルのスカイラウンジにいた。仕事を終えた帰りだろうか、眼下のサイゴン河には、対岸に渡るフェリーに吸い込まれるバイクの灯が美しく帯を引き、河向こうの巨大ネオンが河面を彩り、行きかうクルーザーの波に揺れていた。

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ホテルのスカイラウンジから

この日、見てきたベトナム戦争の戦跡、クチトンネルでの重い感傷と興奮、火照った身体に風は心地よく、カクテル“ミスサイゴン”が胃の腑に沁みた。

息子から“どうしてべトナム戦争は特別なのか”と聞かれて語り合ったが、私たち夫婦の青春時代は、1964年8月のトンキン湾事件をきっかけに始まったベトナム戦争とともにあった。戦争そのものはアメリカによるベトナムへの侵略だったが、日本の米軍基地は補給基地となり、沖縄の嘉手納からは、爆弾を積んだB52機が直接飛び立ち、ベトナムへ爆弾の雨を降らせていた。

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女子高校生たち

世界で日本で、心ある人々は声をあげ、反戦運動が広がり、ベトナムは勝利した。そのたたかいのなかに青年時代の私も妻もいたのだった。 激戦の地となったクチで、そしてサイゴンの戦跡博物館でみた戦争の真実は、その侵略戦争がどんなに不正義のものだったか、どんなにむごいものであったかを良く教えていた。二人のたたかいなどささやかなものだっただろうが、私たち夫婦の生きてきた歴史が間違っていなかったこと、イラクに続く戦火を前にして、いまに生きる人生だったことを確認でき、子どもたちに伝えることができた旅となったのでした。

 

第一印象

 

なんという騒々しい街か、なんと活気に満ちた国か・・、これがホーチミンに入った第一印象だった。

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街の風景

すさまじい人出、イナゴの群れのようなバイクには驚くしかない。途切れることがないほどで、移動するためのバイクなのか疑わしい、バイクに乗るためのバイクではないかと確信するほどだった。二人どころか3人、4人乗り、なんと片手で幼子を抱きかかえた5人乗りの片手運転まで! 信号は少ない、横断歩道なんてどく吹く風。車はプープー、バイクはビイ、ビイ、そこのけ、そこのけ!と走り、人々は実にうまくバイクや車の間を通り抜けていく。腰をかがめたおばあちゃんもプロだ。息子は「街中が暴走族だ」と評した。

シクロ(人力車)やバイクが、「おにいちゃん」と声をかけ、歩道には水、果物、サンドイッチ、本などの生活物資の露店が並び、地べたで魚や肉が裁かれ屋台に吊るされる。そこここにヒゲソリ、新聞、スルメ、風船、サングラス、時計・・・市民や観光客相手の物売りが往来する。チンチンと鈴を鳴らしながらやってくるアイスクリーム売りは、私の子ども時代を思い出させた。

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街の風景

こうした喧騒が朝まで続くといったら大げさだろうか。新年だったからかも知れないが、ベトナムで迎えた初めての朝は、にぎやかな音で起こされた。眼下を見下ろすと、軍楽ではないかと思うが、太鼓やラッパを先頭に人々が行進していた。午前4時だった。

夕方ともなれば人々は路上にイスを持ち出し夕涼み(?)や食事、会話の途切れることがない。人懐っこくあふれる笑みは、ベトナムはいま、「豊か」とは言えないだろうが、ちょうど40年前の日本に間違いなくあった「豊かさ」、人の社会に失ってはならない大事なものを持っているように思えた。

 

活況のベトナム経済

 

街は、崩れそうな建物やバラック建て店舗が大きな顔をしていたが、近代的なオフィスビルやしゃれたブティックもあちこちに建っていた。日本企業をはじめ外資系企業の看板が立ち並び、巨大な家電専門店のオープンセールはごった返していた。

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オープンセールの家電量販店

携帯電話は普及し、PCも普通に使われていた。2日の日、メコンデルタへ走ったが、郊外には高速道路が走り、高層住宅が建設ラッシュだった。

ガイドは「ここ7~8年、ベトナム経済は大きく上向いた。ドイモイ(市場経済を取り入れた新しい経済政策)で、人々は熱心に働くようになった。自分の土地所有を認められるようになった農民は、それまで一毛作だった稲作を三毛作にした」のだと語っていた。

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建設まもない高層マンション

「コーヒーもいまブラジルにつぐ世界で2番目の輸出国となった。30年続いた戦争で、地雷の撤去など戦後処理に時間はかかったが、アメリカとも関係を回復、外国資本も入るようになり、11月にはAPECも主催。経済開放にあらたな弾みがついた。来年にはマイクロソフトも進出してくる」のだと、説明にも自信があふれていてうれしかった。

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田園風景

ベトナムを勝利に導いた有名な戦いの地、南ベトナム解放戦線のクチトンネルを訪問したが、広い水田地帯のそこここに瀟洒な一戸建てが続いていた。アメリカの枯葉剤で、戦闘で家を焼かれた人々が、こういう家を持てるようになったのだと知って、うれしかった。

 

貧困と自国満足度

 

でも、農民の状態を問う私の質問にガイドはこうも答えた。「まだまだです。機械は少しだけで耕作はほとんど手作業。儲けは少ししかなく農民は大変です」。また医療保険制度について訊くと、「都市部でもまだ半分程度。農村では保険も知らない」のだと。正確な話かどうかよくわからないが、まだまだということは事実なのだろう。

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水上の家

郊外の河の岸辺には、遠目にも水没しそうなバラックが続いていた。ベトナム戦争で家を失った農民が逃れてたどり着いたところとのことだった。政府は川辺への道路整備とあわせて、これらの家を買い上げ、新たな住宅への移住政策をすすめているのだという。川上の方から道路工事が進んでいた。

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国道沿いの露店

外人を見つけてはすくい上げるような眼差しで「おなかペコペコ」と帽子を差し出す裸足の子どもがいて心痛んだが、貧困の克服はベトナム社会の大命題なのだろう。帰ってきた読んだ元日付「しんぶん赤旗」で、いまベトナム訪問中の共産党志位委員長の対談があり、昨年1月に出されたIMF(国際通貨基金)レポートによれば、1993年に58%だった貧困率を2002年には20%まで減らしたのだと書いてあった。そしてベトナム支援国際会議は「世界の経済発展におけるもっとも成功した例」として評しているのだそうだ。

それでもこの現実なのだ。だが、ここには希望がある。

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バナナの出荷だろうか

いつ、どこで聞いたか忘れたが、自国への満足度という国際比較があり、ベトナムは4位だという。貧しくともこの国に、こうして生きてあることを幸せに思える国。「豊か」といわれる国で、不安と危険に苛まれていき続けることになったこの国。どこを間違ったのか、私たちの国は・・・。

決して「貧しい国に帰ろう」などというのではなく、利潤第一主義、競争社会の総括、もう一つの日本の在りようを考える材料が、ここ、ベトナムのいまにあると感じたし、それはこれからのベトナムの国づくりの参考になるのではないだろうか、と思った。

 

ホーおじさんの思想

 

3日、私たちはクチ戦跡に行った。戦争前、クチは木々や果実にあふれる緑と実りの豊かな土地で、農民たちは平和に暮らしていた。しかしここは、アメリカ傀儡政権のあったサイゴン(いまのホーチミン市)の北70キロという戦略上の要衝に位置し、米軍の激しい攻撃の地となった。

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小柄な人間がやっとのトンネル

地上はナパーム弾、火炎放射器で家々を焼き尽くされた。枯葉剤がばら撒かれ死の土地となったが、いまは歴史遺跡区域として保護され、大切な歴史教育の場、観光資源として生かされていた。

地上を追われた農民たちはトンネルを掘った。その長さは、このクチだけで250kmにも及んだといい、地下に炊事場、作戦指揮室、サンダル工場、軍服の製造工場、生活と戦闘に必要なあらゆる場が作られていった。代表的なものが残されていたが、密林のなかにはいたるところにワナや落とし穴も仕掛けられた。クチの農民は、この地下から神出鬼没、“鋼鉄の土地、銅の城壁”と呼ばれる不屈の戦闘を続けたのだった。

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トンネルから出られない私

樹木の根っこに傍目にきづかぬ空気口があり、炊事場の煙で探索されぬよう、離れたところに煙突が作られ、写真を見てもらえばわかるが、トンネルは入り口も内部も実に狭い細い。私たちには数mと通り抜けることができないほどだった。それは体の大きい米軍の進入を阻むためだったという。

米兵は「ベトコンはどこにもいないが、どこにもいる」と恐怖におののいたといわれ、戦後、この地をみた西欧の建築家が「きわめて合理的で精緻な構築物」と評したのだと聞いた。

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ホーおじさんの像

こうした闘いのなかでも、農民たちは地中で歌い、踊ったという。昼は米兵と戦い、夜は月明かりを頼りに田んぼを耕したと説明された。そこには正義は勝つという確信、“腹が満ちてこそ人は闘える”というホーおじさん、ベトナム解放戦線、ベトナム共産党の指導者だったホーチミン氏の思想が息づいていたとガイドは語っていた。

戦前の日本は、“贅沢は敵だ”、“欲しがりません、勝つまでは”と叫ばされたのだったと、思い出して聞いていた。

 

戦跡博物館とアメリカ人

 

4日は、ホテルから歩いて戦跡博物館を訪ねた。ベトナム戦争の歴史、米軍が使用した戦闘機から、戦車、武器、弾薬、捕虜を拷問した収容所(虎の檻と呼ばれていたとのこと)など、遺物が展示され、多くの解説員が説明にあたっていた。

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双頭胎児

枯葉剤の二次被害で産まれた双頭の胎児のホルマリン漬けはショックだった。展示する側も辛いものがあっただろうが、正視しなければならない。伝えたいと思って許可を得て写真を撮ってきた。(ついでになるが、アンコールワットでも、水頭症の子どもを抱いた母親が物乞いをしていた。その子どもの頭はその子の体の半分を占めていた。この子も枯葉剤の被害者なのだ。)暮れにはベトちゃん結婚のうれしいニュースがあったが、ガイドによれば、枯葉剤の被害者はいまでも200万人に及ぶという。

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再現してあった収容所

成果を競うように開発されたのだろう数々の拷問具、足首を鉄でつないだ真っ暗な収容所・・・など、想像で補って欲しい。

戦跡博物館では昨年暮れから『いわさきちひろ展』がおこなわれていた。彼女のことはご存知の方が多いと思うので書かないが、この地でみた『戦火のなかの子ども』の絵には、ひときわ感慨深いものがあった。

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アメリカ人がたくさんきていた

引きも切らない来訪者だった。アメリカ人もたくさんいた。展示は侵略者が誰であったか、あいまいにはしていない。これはクチでのことだが、「ここにきたアメリカ人の感想はどうか」とガイドに訊いたら、「多くの世代はもう戦争を知らない。ベトナム人の多くもそうだ。これからは仲良くすることだ」と答えた。思慮ある答えだった。

あの展示を前に、これはウソだ、なかったことだというアメリカ人はいないだろうと思う。ここにこれだけ多くのアメリカ市民が訪れていることの大切さを思い、こんどは日本人として、中国、韓国などに犯した侵略の戦跡を訪ねなければと思った。

 

(番外編)ベトナム戦争とはどんな戦争だったか

 

ずいぶん昔の話になってしまいました。しかしイラクにみるように、いまも世界につづく他国民抑圧の戦争。ベトナム戦争はなんだったのか、振り返っておくことはムダではないでしょう。私も思い出し、読み返し整理してみて、たいへん勉強になりました。番外編をお届けします。

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破壊した米軍戦車で武器をつくった

第一次ベトナム戦争

第2次世界大戦の終結で1945年9月、ベトナムは独立したものの、元の宗主国フランスは再植民地化を狙ってサイゴンへの攻撃をしかけ、1949年6月、サイゴンにバオダイ帝を立て傀儡政権を作り上げました。アメリカもフランスに加担し、サイゴンに軍事援助顧問団をおき軍事介入を開始します。

長い植民地支配からやっと解放されたベトナム国民は、激しく抵抗。1952年2月、人民軍はハノイの北、大部分の地域を制圧するまでになりました。1954年3月にベトナム人民軍は難攻不落といわれたディエンビエンフー要塞を攻撃しこれを陥落させ、フランス軍はほぼ戦闘能力を失ってしまいます。

5月にはインドシナ休戦協定に関するジュネーブ会議が開かれ、北緯17度線での南北分割という形でしたが、国際社会はベトナムの主権と独立を認めたのです。これが第1次インドシナ戦争で、ベトナムの再植民地化を狙ったフランスは敗北したのでした。

「反共の砦に」、アメリカが介入

ところが、フランスに変わりベトナムに影響力を持つようになったアメリカは北の社会主義に対抗すべく、反共主義者のゴ・デェン・ジェムを擁立し傀儡政権を樹立します。国民に根をもたない傀儡政権は、軍事独裁的な性格を強めるほかありません。ジェム政権もクーデターで倒され、最後は1964年1月、軍事クーデターでグエンカーン将軍が権力を掌握、いっそう民衆の支持をうしないますが、アメリカはこの政権を支持し、ベトナムへの軍事介入をますます強めて行きました。1964年8月2日、トンキン湾事件をきっかけに、翌年2月、北ベトナム爆撃(北爆)を開始、これが本格的なベトナム戦争、第2次ベトナム戦争への突入でした。

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米軍機のタイヤでサンダルをつくった

ベトナム民族解放戦線

ベトナムでは、ホーチミンの率いるベトナム共産党を中心に民族解放戦線が結成され、民族の誇りと独立をかけた民衆のたたかいが南北全土に広がったのです。米国はのべ260万人の兵士を派遣、韓国、タイ、オーストラリアも派兵、日本の米軍基地や沖縄からも出撃、米海兵隊のダナン上陸、B52の南ベトナム解放区へのじゅうたん爆撃や枯葉剤の散布、北爆など、圧倒的な物量を投入して戦火を拡大しますが、ベトナム戦争は泥沼化して行きました。

1968年1月、南ベトナム解放戦線のテト攻勢が開始され、サイゴンのアメリカ大使館の一部が占領されるまでになり、南ベトナム軍の劣勢は誰の目にも明らかとなって行きました。

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米軍の砲弾も武器の材料になった

世界に広がったベトナム反戦運動

アメリカは、泥沼にはまったベトナム戦争から抜け出せず、国内と世界で広がる反戦世論の強まりにおされ、ついに和平交渉の場に引き釣り出されることになりました。1968年5月、アメリカのキッシンジャー補佐官と北ベトナム側のレ・ドク・ト特別顧問の間で平和交渉がパリではじまり、1973年1月、「ベトナムにおける戦争と平和の回復に関する協定」に米国、サイゴン政権、ベトナム民主協和国、臨時革命政府(南ベトナム解放戦線)の4者が調印、停戦協定が成立します。3月29日ニクソン大統領はベトナム戦争終結を宣言し、米軍は南ベトナムを撤退。1975年4月30日、民衆の歓呼の声のなか北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンに進駐し、同日、南ベトナム政府の無条件降伏で戦争は終結したのです。

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展示されていた写真

戦争の基本的性格と意義

この戦争は、戦後世界の冷戦構造のなか、アジアにおける反共の砦としてベトナムを分断支配しようとしたアメリカによる侵略戦争でした。ベトナム人民からいえば“抗米救国戦争”そのものでした。

世界の超大国アメリカとアジアの小国ベトナム。国力、戦力、物量の差は歴然、20世紀のこれまで、人類が体験してきた数多くの戦争の常識から考えれば、勝敗はあきらかな戦争でした。ところが小国ベトナムが超大国アメリカに勝利したのです。植民地支配の時代の終焉、民族自決という新しい流れ、世界の人々に時代の変化をまざまざと見せたたたかいでした。

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かっての傀儡政権の大統領府。これが堕ちて戦争は終わった。いま統一会堂となっている

戦死者の数

この戦争でベトナムでは335万人が戦死(サイゴン政府軍も22万人、民族解放軍約110万人、民間人約200万人が死亡)し、その半数は子どもたちだったといわれています。米軍の側も5万8千人が戦死、30万人以上が負傷したのです。

ブッシュ政権はイラク戦争が行き詰まったのは、「軍事力が足りなかった」からだとして、米軍2万人の増派という方針を発表しましたが、どこまで許しがたきバカブッシュなのでしょうか。

 

物価と料理、お薦めのベトナム

 
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食べかけですが、 フォー

ライスペーパーに生野菜やエビをくるんで食べる、日本流にいえば生春巻のゴイクオン、米の麺と野菜たっぷりのスープのフォー、フランスパンにハムや野菜をはさんだバインミー・・・ベトナムではなにを食べても美味しかった。しかも法外の安さは、なんとしたことだ。果物も山盛りで売られていた。種類も多い。

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ベンタイン市場にて

現地通貨はベトナムドン(VDN)。約1000VDNが7円。水は500mlボトルが3000VDN、バインミーは5000VDNだったから、日本円にすれば20円、35円ぐらい。良く飲んだビールは350ml缶が13000VDNで100円にもならず、フォーは1杯が170円ぐらい。

娘の案内で、フエ宮廷料理をだす高級なお店にいったが、ピアノやバイオリンの演奏を楽しみ、4人がたっぷり食べて飲んで49$、日本円で6000円ほどだったのだ。だいたい、私たちのホテル代からして1泊2000円。高級なところではなかったが、充分に清潔で日本のビジネスホテルの3倍の広さはあった。

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笑顔で応えた恋人たち

女性のアオザイ姿も美しかった。ただ布を断ち切っただけのようなシンプルなものだが、これに優る民族衣装はないと思った。ベトナム航空乗務員は純白のパンツに色単色のアオザイで気品があった。カメラをむける勇気がなかったので、こちらからでもお楽しみください。

CM

いまが乾季で、日本の7月、8月の感じか。関空までは分厚いジャンパーでも、向こうについたらTシャツに半ズボンの世界です。頃や良し、食は美味、安さ抜群、実にフレンドリーな人々、“これまでの日本を振り返ることのできる”国、ベトナムです。関空からタンソンニャット国際空港までわずか5時間、すぐ隣の国ベトナム。お薦めの国です。ベトナム航空でぜひおでかけください。宣伝になっちゃった。

 

戦場で日本共産党の論文

 

ベトナムを語るときに忘れてはならないと私が思う二つのことを書きとめておきたい。

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日本コーナーの展示

戦跡博物館には、ベトナムに連帯した世界各地の運動も数多く展示してあった。そのなかにひときわ目立ったのが日本の活動記録だった。全日自労のゼッケンあり、新日本婦人の会のビラあり、しんぶん赤旗、党のステッカーなどが展示されていた。このステッカー、私は覚えていないが妻は見たとたんに「これ貼ったよね」。

一つは、ベトナムに連帯する国際的な活動で日本共産党が果たした役割についてです。

この勝利がベトナム人民不屈の闘争の成果であることは言うまでもないが、そのたたかいを包んだ国際的なたたかいの成果でもあった。「世界の憲兵」のごとく振舞ったアメリカを押し止め交渉のテーブルにつかせるには、「この戦争が侵略戦争であって、ベトナムにこそ正義がある」という正しい見方を広げ、アメリカに戦争の中止を求める国際的なとりくみが欠かせなかった。私たちはそれを当時、反帝国際統一戦線といっていた。

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日本コーナーの展示

本来なら当時、「社会主義」を名乗っていたソ連や中国政府がその陣営にあってしかるべきだったが、フルシチョフのソ連はアメリカを美化し、中国の毛沢東はソ連との対決こそ先と、結局ベトナムに背を向け続けていた。しかし日本共産党は、ベトナム侵略戦争をやめさせることが国際政治の焦点だと、終始一貫、反帝国際統一戦線の強化のためにたたかった。ソ連共産党や中国共産党とも厳しい論戦、交渉をおこない、世界に働きかけた。そのために発表された諸論文は翻訳され、戦場で、トンネルで、学習されベトナム人民を励ましたのだった。

 

戦場のカメラマンたち

 

およそ世界中でベトナム反戦の運動はたたかわれた。数万、数十万のデモが繰り返され、労働者はストライキで、ビートルズ、ジョーンバエズ・・・数多くのシンガーは反戦歌を歌い、開高健はじめ世界の文学者はペンでたたかった。もうひとつ書き留めておきたいのは、そのなかで報道カメラマンたちの果たした役割である。

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聖母マリア教会

ベトナムには多くの報道カメラマンがはせ参じた。日本人だけでも沢田教一、石川文洋、岡村昭彦(彼のことは妻が教えてくれた)などがあがる。

彼らはもう、かっての「従軍カメラマン」ではなかった。独立したジャーナリストとして砲弾の飛び交う戦場にたった。そしてそこに繰り広げられる戦争の真実、犠牲となっていく民間人の姿を、精神を病んでゆくアメリカ兵を、冷徹な眼で捉え、写し撮った。世界は彼らの仕事を通してはじめて、この戦争の実態を知ったといっていい。彼らの写真が、映像が、映し出す真実は巨大な力をもち、人々の心をたたき続けたのだった。戦場に散った命も少なくなかったが、彼らの多くはピューリッツァやキャパの栄誉が与えられた。戦跡博物館には石川文洋の写真集も展示されていた。

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各地にハスの花が咲いていた

そしてこれは、娘が教えてくれたことだが、その彼らが撮りたての写真を持って戦場から駆けつけたのがマジェスティックホテルだったというのだ。UPIなど世界の主要通信社が支局をここに開設、戦場の真実がここから世界に発信されていた。

そのホテルでベトナムのひとときを過ごし、ベトナムと私たちの半生を振り返ることができた幸せは、感謝してもし切れない。

 
  

(番外編)載せきれなかった写真

    

ベトナムではメコンデルタツアーにもいったし、ベトナムからカンボジア、シェムレアップ空港へ飛びアンコールワットにもいった。この遺跡群には、人類の歴史と文明の底深さに感動したし、温暖でさわやかな気候のなか、ゆったりとした時間を過ごしてきた。

機会があれば書きたいと思うが、載せきれなかった写真のいくつかをお届けし、今回の旅の「体感記」はここまでとしたい。

なお体感記の文中で掲載した写真には、息子や娘の撮った写真もあることをお断りしておきます。

お読みくださったみなさん、ありがとうございました。

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